難しいです、はい。
【玉上訳:源氏】
角川文庫で出版されている玉上版源氏物語の一巻に手を付け、現在は帚木の左馬頭の長い語りに入っています。かなりシンプルな構成でして、注はちと足りませんが現代語訳がついているので、適宜参照しつつ読み進めています。
いわゆる雨夜の品定めの部分ですが、これは現代語訳でもなかなかに理解しづらい所じゃないかと俺は思ったりしてます。何というか語りが長すぎて頭に入ってこないというか。
なのであまりにわかりにくいところは現代語訳をちらちらと参照して、なるべくそのままで味わってみようと思っていますが、味わうまでに至らない、というのが現状のようです。
寂聴版の源氏を若紫まで読んだので、そのおかげでいってることが何となく見えてはいますから、苦にはならないかんじですね。
にしても結構強烈なのが桐壷更衣の死が「よこざまなるやうにて」と表記されていたことです。寂聴版では「横死同然に」と訳されていたと思いますが、原文通りで衝撃でしたね。
【原文を読むには】
原文を読むコツはやはり古文を読み慣れることなんですが、そう簡単にはいきません。段階が必ずあると思います。
●現代語訳に親しんでから読むと単語レベルではおさえられると思います。
●百人一首など、和歌を少し知っていると助詞助動詞レベルでかなりカバーできます。
僕の場合百人一首に親しんでいるので助詞助動詞のレベルでは自然に入ってきました。しかし単語がやはり弱いし、何のことを言ってるのか分からない部分はかなりあります。左馬頭のセリフは本当に難しい…一度原文を通読したあと現代語訳を読んでようやく「あのことか」と理解するような次第です。
原文と読み比べると玉上訳は学者ならではの補足があって面白いですね。なるほど、こうやって訳すのかと関心が向きました。
【現代語訳とは】
まず、原文をそのまま訳すと、周辺事情を知らない人が読んだ場合によく理解できないことが多いのです。行事がぽんと書いてあって、それは何歳のときにするものだからいまこの登場人物の年齢が分かる、とかいったように。
なので、どこまで補足するかというバランス感覚が現代語訳では問われるでしょう。
もう一つは現代語訳する人が、原文に書かれている心情などの行間をどこまで深く読むかです。行間を豊かに解釈するのはよいですが、それが出過ぎると創作になってしまいます。この部分をどの程度含めるかも、重要になります。
僕としては一度寂聴版に目を通しているのですが、行間か、訳文かまでの区別を覚えているほど記憶力はないですから、とりあえず原文の箇所が玉上訳のどの部分に当たるかを見比べつつ、余計な部分はのぞいて読み進めている次第です。
今年は残りを源氏と過ごすことになりそうですなぁ…八犬伝よりも長い期間読むことになりそうです。いや、寂聴版を読む必要があるのか…? 今ふと思ったけど(笑)
角川の原文を若紫まで読み終わった後、末摘花以降の巻を原文で読んでみて…と言ったところかとおもいます。
【湖月抄】
こうして実際に読んでみると、やはり全体を通して読み込まない限り、湖月抄などの古典注釈を読んでもしょうがないなぁ…という実感ですねぇ。もっとも湖月抄は原文を書き、かつめっちゃくちゃに詳しく、原文をいきなり読むよりはるかにいいんでしょうけれどもねぇ…。
講談社学術文庫で一、二を争う分厚い本という『湖月抄』が出てますが、もし本格的に原文を読みたい場合は、岩波や角川の文庫を買わずにむしろ湖月抄を買った方がいいのかも知れません。湖月抄は江戸時代の書物ですからやっぱり古文は古文ですが、平安時代の言葉よりかはわかりやすいです。代わりに漢語がよく出ます。
ま、大学卒業して10年にもなっちまいますので、今更ですけど。
【興味を持つ、広げる】
やっぱ学問は自分で飛び込んでなんぼですね。やらなきゃ、とかやらされて、とかいうのでは興味が広がらないんですよ。
それによって進み具合や理解度も狭められてしまう。心理的にきついから嫌々になっちゃうんですよね…。
だからその書物そのものへの感心よりは、その書物に対する技術的な部分である『調査の仕方』『まとめ方』『ドキュメントの書き方』などの方に目が向いて、べつにその書物からじゃなくても得られる基本的なところで終わっちゃうのではないかと。
興味を持つのはすごく重要なんだけれども、わざわざ対象を無理して選ぶことはないですよね。遊びたい盛りでは遊ぶことに興味を向ければそれでいいと思います。
ただ、遊びというのは本能に近いものがあると思います。そのステージから上がるためには興味の対象を精神的に高い次元に持っていく『脱皮』がどうしても必要かなと思います。遊びって愉しいけれども結局「衝動」でしかないんですよね。
遊ぶなら遊ぶでそれを『徹底させる』とか、それをこれからどんな風に活かせるのか考えるとか、実際に応用してしまうとか…。甘受するだけではなく、積極的にコマを進めてみるという前向きさというのは誰しも持っているはずなので、一歩進んで考えるのが大切じゃないでしょうか。
与えられてしまうとそこを考える必要がないので、そんなことが必要だ、と言うことに思い至ることもできなくなってしまうんですよね。そこが怖い。
与えられる代わりに自分で生み出せなくなるという副作用をよくよく思わねばならないですね。
【玉上訳:源氏】
角川文庫で出版されている玉上版源氏物語の一巻に手を付け、現在は帚木の左馬頭の長い語りに入っています。かなりシンプルな構成でして、注はちと足りませんが現代語訳がついているので、適宜参照しつつ読み進めています。
いわゆる雨夜の品定めの部分ですが、これは現代語訳でもなかなかに理解しづらい所じゃないかと俺は思ったりしてます。何というか語りが長すぎて頭に入ってこないというか。
なのであまりにわかりにくいところは現代語訳をちらちらと参照して、なるべくそのままで味わってみようと思っていますが、味わうまでに至らない、というのが現状のようです。
寂聴版の源氏を若紫まで読んだので、そのおかげでいってることが何となく見えてはいますから、苦にはならないかんじですね。
にしても結構強烈なのが桐壷更衣の死が「よこざまなるやうにて」と表記されていたことです。寂聴版では「横死同然に」と訳されていたと思いますが、原文通りで衝撃でしたね。
【原文を読むには】
原文を読むコツはやはり古文を読み慣れることなんですが、そう簡単にはいきません。段階が必ずあると思います。
●現代語訳に親しんでから読むと単語レベルではおさえられると思います。
●百人一首など、和歌を少し知っていると助詞助動詞レベルでかなりカバーできます。
僕の場合百人一首に親しんでいるので助詞助動詞のレベルでは自然に入ってきました。しかし単語がやはり弱いし、何のことを言ってるのか分からない部分はかなりあります。左馬頭のセリフは本当に難しい…一度原文を通読したあと現代語訳を読んでようやく「あのことか」と理解するような次第です。
原文と読み比べると玉上訳は学者ならではの補足があって面白いですね。なるほど、こうやって訳すのかと関心が向きました。
【現代語訳とは】
まず、原文をそのまま訳すと、周辺事情を知らない人が読んだ場合によく理解できないことが多いのです。行事がぽんと書いてあって、それは何歳のときにするものだからいまこの登場人物の年齢が分かる、とかいったように。
なので、どこまで補足するかというバランス感覚が現代語訳では問われるでしょう。
もう一つは現代語訳する人が、原文に書かれている心情などの行間をどこまで深く読むかです。行間を豊かに解釈するのはよいですが、それが出過ぎると創作になってしまいます。この部分をどの程度含めるかも、重要になります。
僕としては一度寂聴版に目を通しているのですが、行間か、訳文かまでの区別を覚えているほど記憶力はないですから、とりあえず原文の箇所が玉上訳のどの部分に当たるかを見比べつつ、余計な部分はのぞいて読み進めている次第です。
今年は残りを源氏と過ごすことになりそうですなぁ…八犬伝よりも長い期間読むことになりそうです。いや、寂聴版を読む必要があるのか…? 今ふと思ったけど(笑)
角川の原文を若紫まで読み終わった後、末摘花以降の巻を原文で読んでみて…と言ったところかとおもいます。
【湖月抄】
こうして実際に読んでみると、やはり全体を通して読み込まない限り、湖月抄などの古典注釈を読んでもしょうがないなぁ…という実感ですねぇ。もっとも湖月抄は原文を書き、かつめっちゃくちゃに詳しく、原文をいきなり読むよりはるかにいいんでしょうけれどもねぇ…。
講談社学術文庫で一、二を争う分厚い本という『湖月抄』が出てますが、もし本格的に原文を読みたい場合は、岩波や角川の文庫を買わずにむしろ湖月抄を買った方がいいのかも知れません。湖月抄は江戸時代の書物ですからやっぱり古文は古文ですが、平安時代の言葉よりかはわかりやすいです。代わりに漢語がよく出ます。
ま、大学卒業して10年にもなっちまいますので、今更ですけど。
【興味を持つ、広げる】
やっぱ学問は自分で飛び込んでなんぼですね。やらなきゃ、とかやらされて、とかいうのでは興味が広がらないんですよ。
それによって進み具合や理解度も狭められてしまう。心理的にきついから嫌々になっちゃうんですよね…。
だからその書物そのものへの感心よりは、その書物に対する技術的な部分である『調査の仕方』『まとめ方』『ドキュメントの書き方』などの方に目が向いて、べつにその書物からじゃなくても得られる基本的なところで終わっちゃうのではないかと。
興味を持つのはすごく重要なんだけれども、わざわざ対象を無理して選ぶことはないですよね。遊びたい盛りでは遊ぶことに興味を向ければそれでいいと思います。
ただ、遊びというのは本能に近いものがあると思います。そのステージから上がるためには興味の対象を精神的に高い次元に持っていく『脱皮』がどうしても必要かなと思います。遊びって愉しいけれども結局「衝動」でしかないんですよね。
遊ぶなら遊ぶでそれを『徹底させる』とか、それをこれからどんな風に活かせるのか考えるとか、実際に応用してしまうとか…。甘受するだけではなく、積極的にコマを進めてみるという前向きさというのは誰しも持っているはずなので、一歩進んで考えるのが大切じゃないでしょうか。
与えられてしまうとそこを考える必要がないので、そんなことが必要だ、と言うことに思い至ることもできなくなってしまうんですよね。そこが怖い。
与えられる代わりに自分で生み出せなくなるという副作用をよくよく思わねばならないですね。
