要約/有名かつ文学史上に残る傑作を、村上春樹が訳す。謎の多いギャツビー氏。彼の杳たる人となりと、激しく一途な想いのなかで進む物語。初読の感想は「良い物語だった」だが、色々考えられておもしろい。
●タイトル:グレート・ギャツビー
●レーベル:村上春樹 翻訳ライブラリー
●出版社:中央公論新社
●著者:スコット・フィッツジェラルド
●訳者:村上春樹
【前置き】
『偉大なるギャツビー』『華麗なるギャツビー』などのタイトルで翻訳や映画化がされている、アメリカ文学の古典作品だ。読んだことがないので今の今までどういう話か全く知らなかった。
なるほど、面白いとは言い難いが、いい物語だと思う。世界の文学史上の中でも傑作とほまれたかい本作にむかって不遜ないいざまだとは思うのだが、初読の感想としてそのように思ってしまったのだから仕方がない。
訳者の後書きには、この作品の原文のことや作者についてもかなり筆を割かれているので、こちらを読んでから本編を読むと案外すんなり頭に入るかも知れない。
この作品は舞台や映画作品になるべくして生まれたのかもしれない。
振り返って思いを馳せると、物語の展開はそれほど劇的さを感じない。が、登場人物達の感情の動きの大げささと、語り手であるニックのユーモアを含んだ冷ややかさは舞台の演技を見ているようだったし、なによりギャツビー氏の謎に包まれた人物像は映画化にはもってこいなんじゃないだろうか…もっとも、ギャツビー氏の行動や動機に俺はついて行けない部分があるが。
【物語】
アメリカ中西部からロング・アイランドの高級住宅地に引っ越してきたニックは、夜ごと豪華なパーティを開く隣人ジェイ・ギャツビーに興味を持つ。ところが、パーティの参加者はホストであるギャツビーの人となりを知らず、噂以上のことをいえる者はまるでいなかった。
ニックはギャツビーと近づきになり、そのうちギャツビーがなぜこんなパーティを開き続けているかを、打ち明けられる。そこに秘められたギャツビーの思いとは、一体?
【感想】
◆◆◆なにがグレートなのか? ニックの思い
本編も訳者後書きをも読み終わった後、こう思った。
「はて、何が「グレート」やねん? ギャツビーへの皮肉か?」
たぶん、この物語がニックによって語られていることがヒントになるのかもしれない。「ギャツビー氏との思い出…僕の中のグレートな彼」といったところだ。つまりタイトルはニックがつけたものと見立てるのが俺の予想。
物語の終盤、ニックは本当に冷ややかに、周囲の人物を、環境を見渡している。ギャツビーに比べれば皆たいしたことはない、というような感慨を感じ取るほどに。
ギャツビー氏の正体はどうあれ、ニックにとって彼は大いなる友として心に残ったはずだ。それは、「彼やニック」と「友人達」との間のどうしようもない壁が見えたことによる仲間意識のようなものが多分にあるかも知れないし、薄情な周囲の連中への義憤も含まれていることだろう。
高級住宅街に広大な屋敷を持つ大金持ちのギャツビー氏。読者にとっては、彼に対して謎か神秘かうさんくささかのどれかを感じるだろう。それにもましてデイジーへの執念深い思いをかんじざるを得ない。
いずれにしても、謎が明らかとなっていくにつれ、ギャツビー氏個人への感情よりも、この物語の根底に座っているアメリカという場所の「仕組み」が透け始めてくる。はっきり言って物語の起伏は控えめだ。しかしこの物語の構成は、こうでなければならないと言い切れるほど枠がしっかり堅固に作られていて、しかも用意周到に、そしてそれを感じさせないような取っつきやすさをもっていると思う。
◆◆◆文章の美しさと翻訳の限界
あと、訳者は後書きで作者の文章の美しさを述べている。1920年代という90年も前の英語だから、英語がちょっと読めるという程度では読み進められないそうだ。
英語は日本語の古典ほどには形を変えていないと聞いたことがあるが、それでもこれだけ時代がさかのぼると違ってくるのだろう。
…しかし、サキの短編はすんなり俺でも読めた。とすると、より柔軟に形を変えているのがアメリカ英語なのだろうか。
それはさておき、文章の美しさは、翻訳を読むなら鑑賞できない、あるいは感じ取るのが非常に困難なものである。訳者はかなり苦心惨憺しているようだ。たしかに、本文を読んでいると、唐突に詩的な表現がわっと押し寄せるときがあるし、比喩表現が非常に目立つ(もしかしたら訳者が独自に追加しているのかも知れないが)。
こないだ読んだ『
すべての美しい馬』では星空の描写が実にすばらしかったのだが、もっとずっと散文詩的で、作者の感性が光るところなんじゃないかと思う。
英語は詩を発音の調べで表現する。音韻を踏まえて小説本文を書くというのは実にすごいと思う。こういうのは翻訳ではどうしても味わえない。
逆に日本語を英語に翻訳した場合も同じだ。
極端だが紀友則の「久方の光のどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」という歌を取り上げると、英語に翻訳すると
In the peaceful light
Of the ever-shining sun
In the days of spring,
Why do the cherry's new-blown blooms
Scatter like restless thoughts?
となるわけだが、ここには「ハ行」「ナ行」の音の美しさも、口に上らせやすい調べの良さ、そしてなにより原文の下の句が持つ疑義、悲嘆、責めなどが曖昧にないまぜとなった繊細な「らむ」という言葉のニュアンスも、「Why〜?」とはっきり疑問を呈している文章にせざるを得ず、作者の込めたであろう感情も何割か失わざるを得ない。
訳者もこうした「(原文の持つ)独特のアロマやまろみや舌触りが、避けがたく微妙に失われていく」といい、「翻訳の限界」と述べている。
こういうのはしょうがない。原文をがんばって読んでも、ネイティブでない限り、言葉のもつ繊細な起伏は感じ取れないだろう。これは言葉を知っているいないではなくて、その言葉の中で生活してみないことには浴びられないんじゃないか。
さて、俺はここで和歌を引用したので、小説を持ってこなければいささかフェアとはいえないだろう。
文章の調子、調べといった観点からは決して翻訳はできないに違いない日本の小説をひとつ知っている。
『南総里見八犬伝』これだ。
つまり「読本」である。これはそもそも音読するための物語であって、調子が整っている。
八犬伝はぜひ岩波文庫による原文を読んでいただきたいところだ。
現代語訳だって調子はがたがたなのだ。外国語になんか絶対訳せっこない。意味を伝えるので精一杯だろう。
こればっかりはしかたがない。
くだくだしくかいてしまったが、その限界を感じつつも、名作に少しでも触れたことは価値があると思う。
◆◆◆old sportについて
訳者は20年間悩んで、友人に向けて発する「old sport」と言う言葉を「オールド・スポート」とそのままカタカナにしたという。
カタカナ語で書くことそれ自体が違和感のカタマリで、それで翻訳といえるのかと突っ込みたくなる…のだが、実際、ギャツビー氏がひんぱんに使うこの言葉は、登場人物にとってすらどうも違和感があるようで、トムは
"Don't you call me 'old sport'!" ('old sport'って呼ぶな!)
と叫ぶのだ。
この言葉、スラングらしいんだけれども、調べがつかない。ブリティッシュのスラングじゃないかとどこかのWebページにあったが、そこ以外にそんな情報が見られないのでなんだかアヤシイ。
フィッツジェラルドと同時代のべつの作者の作品などでこの言葉を採集してみて、どんな使われ方をしているのかを調べればよいのだろうとおもう。
ともかく、本作以外でとんとお目にかからないような言葉なのだ。
つまりこの言葉はある意味で非常に「意味深」であり、また物語の伏線の一つにもなっていると俺は思う。
原文だと「old sport」と「friend」は両方の語が文中に使われている。ギャツビー氏だけが使うこの「old sport」という言葉それ自体の意味よりも、その言葉が読者にも、登場人物にも違和感を与えるという効果に意味がある、と俺は考えたい。
たぶんアメリカの高校だったらこの言葉についての授業かなんかされるんだろうなぁ…。
【スコット・フィッツジェラルド】
作者は第一次世界大戦で志願入隊し、除隊後に作家デビューをしたそうだ。
俺の好きなサキは、第一次世界大戦で志願入隊し、そこで戦死した。モーリス・ラヴェルは志願入隊し、野戦病院のトラック運転手の任務に就く。除隊後あの『クープランの墓』を作った。
『西部戦線異状なし』などの映画も第一次世界大戦を舞台にしている。
第一次世界大戦に関係する人物や作品がそこここにあるな。んー。
今回の訳は、この時代を背景にしている、とはなっていない。わざと当世風の部分は削るかだいぶ控えめに表現しているらしい。それは俺も感じた。いったいどんな時代の話なのかわからない。むしろ最近の話としても読めてしまうといってもいい。
こういう翻訳の仕方はアリなのかわからない。ほかの訳を読んだわけではないので比べようもなく、また当世風でなければこの話は生きないのかというと、決してそんなことはないだろうと思われる。
―――――――
今回アメリカ文学の名著を続けて読んだ。こんどは一度手を出してお蔵入りになった、トーマス・マンにまた挑戦するかな…と。そもそも読書経験が足りない俺にとっては一生のうちにいつか読めるだろう、というくらい遠い本なんだが。ああ、無謀。
というわけで山川出版社の世界史の教科書を買ってきたので、今度はそれを読むことにする。専門の袋小路に入り込むと俯瞰したくなるのだ。