読書。『もういちど読む山川世界史』

要約/教科書を買った方が良いくらい文章がすかすかで、値段も見合わない。Amazonのレビューは的確。教科書の概要といった趣で、世界史を学んでみたい人にとって地ならしするような気持ちで読む本だと思う。

●タイトル:もういちど読む山川世界史
●出版社:山川出版社
●編集:「世界の歴史」編集委員会

◆◆◆むしろ教科書を買った方がいい◆◆◆
 世界史は、その名の通り世界の歴史がどのように流れてきたかを眺める作業であり、複数の地域(面)を時代の流れとともに(線、方向)読み進める方法がとられる。これが日本史(各国史)との大きな違いであるように思う。
 日本だって九州と近畿のように、こまかな地域別に時代を見ていけば同様になるけれども、文化や政治などが丸ごと違う地域を複数相手にして考えを進めるという点では、各国の歴史と「世界」史では、学ぶときに頭の切り替えが若干必要なんじゃないかと思う。

 この本は、要約に書いたように文章がすかすかで、山川の詳説世界史の「あらすじ本」になっている。本文とコラムで構成されており、俺の勝手な印象ではコラムの紙面比率が高いと思った。
 本書を読んだあと、ここからさらに発展的に読み進めるにはどうするのだろうか、考えてみると…

1:『詳説世界史』を読む。本書をあらすじ本から本番へのアプローチとして捉える。

2:『世界史リブレット』を読む。本書から興味あるスポットを詳細に知る。世界史リブレットは詳説世界史を読んだ人の次のステップという印象もあるくらい、わりに詳細な情報をもつ。

3:各国史、文化史、政治史etc.など、専門から本書を読む。このアプローチは上記二点と逆で、自分の興味ある分野の立ち位置を再確認したい人が本書を手に取ることになるはず。

 ちなみに俺は1から3をそれぞれちょっとずつ含んでいるが、主に3の立場で読んだ。

 値段が何で高いかはちょっと頭が働かないから解らない。ともかく久しぶりに通史を読めたのでよしとしたい…のだけれども、文章が駆け足すぎる印象はぬぐえないし、いまいち面白みに欠けるので、本書を読んでもっと世界史の詳しい内容までステップアップしようという気になるかどうかは、微妙だとおもう。

 もともと歴史に対して興味を持っている人が、大雑把に歴史の流れを追ってみるという用途でなら使えそうだ。しかしそれだと用途に比べて設定された値段が高すぎる。教科書は本書に比べてはるかに情報量、文章とも豊富で、しかも安いときているわけで、素直にはじめから教科書を買ったほうがいい。
 となると、「大人用の世界史あらすじ本」としての体裁、価格設定なのかもしれない。

 本書の最大の欠点は、文章に大して面白みがないことだ。教科書であれば、ある歴史の出来事に対して意義なども書かれている。が、そういうのもない。文章にほとんど起伏がなく、急ぎ足で通史を眺めるくらいしかできない。地図などの図面が役に立つけれども、これがなかったらこの本は…買う価値がどこにあるんだろうか。

 ひとまずうんちくをぶちたい人、知ってるつもりでいた知識を再確認したい人などにはよいかも知れない。

◆◆◆自分の読み◆◆◆
 俺はこの本を全部読んでみて、歴史の流れをおおざっぱに押さえた。もう一度読み返してもう少し頭の中に定着した方が良いかな…と思うが、歴史的な事象からいったい何を考え、学ぶかという意義について思考するには全くといっていいほど役に立たない。

 中世のヴェネツィア共和国の歴史に興味を持っているのは今までのエントリでも書いてきたが、自分にとっては1453年をマイルストーンとして、ヨーロッパの歴史時間軸を眺めるのが色々便利だ。
 しかし、この年だけでは300年以上時代が変わるとなんだかよく分からなくなってくる。そこで、この本を使い、時間軸の確認とそこで起こっている出来事などを整理してみていったところ、案外頭の中で整理はできた。

 本書を読んでいるときに、要所要所でもっと詳しい説明が欲しいと思った。たとえばプロイセンという国がドイツになる過程だとか、神聖ローマ帝国に関する掘り下げだとか、いろいろだ。
 そのいろいろが実にさらっと書かれているので、解ったつもりにしかなれないのは痛い。

――――――――

 この本を読んで、ますますキリスト教の歴史を学ばなきゃいかんという気持ちを強くした。体系的に学んでいるわけではないから、しっかり一冊本を読みたいところだ。
 また、歴史学という学問そのもののことも知りたいと思う。今年は一冊の本を熟読する方向で読書をしてみたい。

…が、グイッチャルディーニのイタリア史は読まなきゃいけないんだ…必読だ…高い…(爆)

読書。『グレート・ギャツビー』

要約/有名かつ文学史上に残る傑作を、村上春樹が訳す。謎の多いギャツビー氏。彼の杳たる人となりと、激しく一途な想いのなかで進む物語。初読の感想は「良い物語だった」だが、色々考えられておもしろい。

●タイトル:グレート・ギャツビー
●レーベル:村上春樹 翻訳ライブラリー
●出版社:中央公論新社
●著者:スコット・フィッツジェラルド
●訳者:村上春樹

【前置き】
『偉大なるギャツビー』『華麗なるギャツビー』などのタイトルで翻訳や映画化がされている、アメリカ文学の古典作品だ。読んだことがないので今の今までどういう話か全く知らなかった。
 なるほど、面白いとは言い難いが、いい物語だと思う。世界の文学史上の中でも傑作とほまれたかい本作にむかって不遜ないいざまだとは思うのだが、初読の感想としてそのように思ってしまったのだから仕方がない。

 訳者の後書きには、この作品の原文のことや作者についてもかなり筆を割かれているので、こちらを読んでから本編を読むと案外すんなり頭に入るかも知れない。
 この作品は舞台や映画作品になるべくして生まれたのかもしれない。
 振り返って思いを馳せると、物語の展開はそれほど劇的さを感じない。が、登場人物達の感情の動きの大げささと、語り手であるニックのユーモアを含んだ冷ややかさは舞台の演技を見ているようだったし、なによりギャツビー氏の謎に包まれた人物像は映画化にはもってこいなんじゃないだろうか…もっとも、ギャツビー氏の行動や動機に俺はついて行けない部分があるが。

【物語】
 アメリカ中西部からロング・アイランドの高級住宅地に引っ越してきたニックは、夜ごと豪華なパーティを開く隣人ジェイ・ギャツビーに興味を持つ。ところが、パーティの参加者はホストであるギャツビーの人となりを知らず、噂以上のことをいえる者はまるでいなかった。
 ニックはギャツビーと近づきになり、そのうちギャツビーがなぜこんなパーティを開き続けているかを、打ち明けられる。そこに秘められたギャツビーの思いとは、一体?

【感想】
◆◆◆なにがグレートなのか? ニックの思い
 本編も訳者後書きをも読み終わった後、こう思った。

「はて、何が「グレート」やねん? ギャツビーへの皮肉か?」

 たぶん、この物語がニックによって語られていることがヒントになるのかもしれない。「ギャツビー氏との思い出…僕の中のグレートな彼」といったところだ。つまりタイトルはニックがつけたものと見立てるのが俺の予想。

 物語の終盤、ニックは本当に冷ややかに、周囲の人物を、環境を見渡している。ギャツビーに比べれば皆たいしたことはない、というような感慨を感じ取るほどに。
 ギャツビー氏の正体はどうあれ、ニックにとって彼は大いなる友として心に残ったはずだ。それは、「彼やニック」と「友人達」との間のどうしようもない壁が見えたことによる仲間意識のようなものが多分にあるかも知れないし、薄情な周囲の連中への義憤も含まれていることだろう。

 高級住宅街に広大な屋敷を持つ大金持ちのギャツビー氏。読者にとっては、彼に対して謎か神秘かうさんくささかのどれかを感じるだろう。それにもましてデイジーへの執念深い思いをかんじざるを得ない。
 いずれにしても、謎が明らかとなっていくにつれ、ギャツビー氏個人への感情よりも、この物語の根底に座っているアメリカという場所の「仕組み」が透け始めてくる。はっきり言って物語の起伏は控えめだ。しかしこの物語の構成は、こうでなければならないと言い切れるほど枠がしっかり堅固に作られていて、しかも用意周到に、そしてそれを感じさせないような取っつきやすさをもっていると思う。

◆◆◆文章の美しさと翻訳の限界
 あと、訳者は後書きで作者の文章の美しさを述べている。1920年代という90年も前の英語だから、英語がちょっと読めるという程度では読み進められないそうだ。
 英語は日本語の古典ほどには形を変えていないと聞いたことがあるが、それでもこれだけ時代がさかのぼると違ってくるのだろう。
…しかし、サキの短編はすんなり俺でも読めた。とすると、より柔軟に形を変えているのがアメリカ英語なのだろうか。

 それはさておき、文章の美しさは、翻訳を読むなら鑑賞できない、あるいは感じ取るのが非常に困難なものである。訳者はかなり苦心惨憺しているようだ。たしかに、本文を読んでいると、唐突に詩的な表現がわっと押し寄せるときがあるし、比喩表現が非常に目立つ(もしかしたら訳者が独自に追加しているのかも知れないが)。
 こないだ読んだ『すべての美しい馬』では星空の描写が実にすばらしかったのだが、もっとずっと散文詩的で、作者の感性が光るところなんじゃないかと思う。

 英語は詩を発音の調べで表現する。音韻を踏まえて小説本文を書くというのは実にすごいと思う。こういうのは翻訳ではどうしても味わえない。
 逆に日本語を英語に翻訳した場合も同じだ。
 極端だが紀友則の「久方の光のどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ」という歌を取り上げると、英語に翻訳すると

In the peaceful light
Of the ever-shining sun
In the days of spring,

Why do the cherry's new-blown blooms
Scatter like restless thoughts?

となるわけだが、ここには「ハ行」「ナ行」の音の美しさも、口に上らせやすい調べの良さ、そしてなにより原文の下の句が持つ疑義、悲嘆、責めなどが曖昧にないまぜとなった繊細な「らむ」という言葉のニュアンスも、「Why〜?」とはっきり疑問を呈している文章にせざるを得ず、作者の込めたであろう感情も何割か失わざるを得ない。

 訳者もこうした「(原文の持つ)独特のアロマやまろみや舌触りが、避けがたく微妙に失われていく」といい、「翻訳の限界」と述べている。

 こういうのはしょうがない。原文をがんばって読んでも、ネイティブでない限り、言葉のもつ繊細な起伏は感じ取れないだろう。これは言葉を知っているいないではなくて、その言葉の中で生活してみないことには浴びられないんじゃないか。

 さて、俺はここで和歌を引用したので、小説を持ってこなければいささかフェアとはいえないだろう。

 文章の調子、調べといった観点からは決して翻訳はできないに違いない日本の小説をひとつ知っている。

『南総里見八犬伝』これだ。

 つまり「読本」である。これはそもそも音読するための物語であって、調子が整っている。
 八犬伝はぜひ岩波文庫による原文を読んでいただきたいところだ。
 現代語訳だって調子はがたがたなのだ。外国語になんか絶対訳せっこない。意味を伝えるので精一杯だろう。

 こればっかりはしかたがない。
 くだくだしくかいてしまったが、その限界を感じつつも、名作に少しでも触れたことは価値があると思う。

◆◆◆old sportについて
 訳者は20年間悩んで、友人に向けて発する「old sport」と言う言葉を「オールド・スポート」とそのままカタカナにしたという。
 カタカナ語で書くことそれ自体が違和感のカタマリで、それで翻訳といえるのかと突っ込みたくなる…のだが、実際、ギャツビー氏がひんぱんに使うこの言葉は、登場人物にとってすらどうも違和感があるようで、トムは

"Don't you call me 'old sport'!" ('old sport'って呼ぶな!)

と叫ぶのだ。
 この言葉、スラングらしいんだけれども、調べがつかない。ブリティッシュのスラングじゃないかとどこかのWebページにあったが、そこ以外にそんな情報が見られないのでなんだかアヤシイ。
 フィッツジェラルドと同時代のべつの作者の作品などでこの言葉を採集してみて、どんな使われ方をしているのかを調べればよいのだろうとおもう。
 ともかく、本作以外でとんとお目にかからないような言葉なのだ。

 つまりこの言葉はある意味で非常に「意味深」であり、また物語の伏線の一つにもなっていると俺は思う。
 原文だと「old sport」と「friend」は両方の語が文中に使われている。ギャツビー氏だけが使うこの「old sport」という言葉それ自体の意味よりも、その言葉が読者にも、登場人物にも違和感を与えるという効果に意味がある、と俺は考えたい。

 たぶんアメリカの高校だったらこの言葉についての授業かなんかされるんだろうなぁ…。

【スコット・フィッツジェラルド】
 作者は第一次世界大戦で志願入隊し、除隊後に作家デビューをしたそうだ。
 俺の好きなサキは、第一次世界大戦で志願入隊し、そこで戦死した。モーリス・ラヴェルは志願入隊し、野戦病院のトラック運転手の任務に就く。除隊後あの『クープランの墓』を作った。
『西部戦線異状なし』などの映画も第一次世界大戦を舞台にしている。

 第一次世界大戦に関係する人物や作品がそこここにあるな。んー。

 今回の訳は、この時代を背景にしている、とはなっていない。わざと当世風の部分は削るかだいぶ控えめに表現しているらしい。それは俺も感じた。いったいどんな時代の話なのかわからない。むしろ最近の話としても読めてしまうといってもいい。

 こういう翻訳の仕方はアリなのかわからない。ほかの訳を読んだわけではないので比べようもなく、また当世風でなければこの話は生きないのかというと、決してそんなことはないだろうと思われる。

―――――――

 今回アメリカ文学の名著を続けて読んだ。こんどは一度手を出してお蔵入りになった、トーマス・マンにまた挑戦するかな…と。そもそも読書経験が足りない俺にとっては一生のうちにいつか読めるだろう、というくらい遠い本なんだが。ああ、無謀。

 というわけで山川出版社の世界史の教科書を買ってきたので、今度はそれを読むことにする。専門の袋小路に入り込むと俯瞰したくなるのだ。

読書。『すべての美しい馬』

●タイトル:すべての美しい馬
●レーベル:ハヤカワepi文庫
●出版社:早川書房
●著者:コーマック・マッカーシー
●訳者:黒原敏行

【前置き】
 久し振りに小説を読んだ。日本なら京極夏彦『前巷説百物語』、海外ならフィリップ・リーヴ『移動都市』『掠奪都市の黄金』以来だから1年以上前だ…。
 ちょっと調べたら「移動都市」シリーズは三作目が出ているようだ。主人公はトムとヘスターから娘になるというのが解説にあったが、そのようだ。俺にとっては第一作目が全てって感じがするが。

 それはさておき、『すべての美しい馬』は、アメリカの作家コーマック・マッカーシーによる青春小説だ。「アメリカ」「青春小説」のキーワードなんぞまーったく読んだことがなかったので、名作との噂である本作をおそるおそる手にとってみた次第。

 本作のあとには村上春樹翻訳の『グレート・ギャツビー』を読むつもり。

【純粋さとその在処と】
 本作はアメリカ南部、テキサス州とメキシコを舞台にしている。主人公は16才のジョン・グレイディ・コールという牧場主の孫である。

 祖父が死に、牧場が売られるところから話が始まる。
 産まれてからずっと馬のある生活、馬が全てというような暮らしをしてきたため、ジョン・グレイディにとって牧場の売却はアイデンティティを失うことと一緒だったのだろう。友だちのロリンズと馬でメキシコに向かっていくのだが、そこで物語が大きく進んでいく。

…純粋な自分の居場所を求めて旅立つ二人と、そこに待ち受けている事実。自分は間違ってはいなくとも、そこで起こったことが事実であるという歯がゆさを若者は受け入れざるを得ないまま、「自分の純粋な思い」の在処を探し続ける。そんな物語だった。

 特徴的な文体に最初面食らったが、不思議と引き込まれた。いや、そのいささか偏執狂的な文体を見届けてやろうという気持ちがぐいぐい読み進められる原動力になった。
 最後には、ジョン・グレイディがどうなるのかをどこまでもみたくてエンドマークが来なきゃいいのに、とさえ思った。

 産まれてくるべき場所はここではなかった、産まれるのがあと10年早ければ、などと思ったことがある人は多いだろう。主人公も、語りはしないがまさしくそういう気持ちで馬をメキシコに進めたのだと思う。
 多分、それは絶対に見つからない。手で触れられるところに見えていても…たどり着けない逃げ水のようなもんだろう。
 誰にでもあるそんな体験を、馬とメキシコの大地という別次元の世界で本作は垣間見せてくれる。

【演出、文体など】
 物語はハリウッド映画のような感情をわざとらしく大きく揺らすような演出が一切なく、どちらかといえば起伏が浅い。だからなにかことがあるとものすごく大きな事件のように感じる。丁度、真夜中の静かな中での小さな物音が、大きな音に聞こえて驚くようなものだ。

 そして、作者の文体が非常に特異だ。
 ナニカの強迫観念に駆られていると思うような徹底した行動描写がすさまじい。すさまじいという表現がぴったり来るとしか思えない。
 ドアを開けた時の、鏡に映るろうそくの描写がこうなっている。
「鏡に映ったろうそくの炎がゆらりと揺れてもとに戻り扉を閉めるときにまたゆらりと揺れてもとに戻った」
 うん、確かに空気のながれの関係でろうそくの炎はそういう風に動くのを我々は知っている。だが小説でこういう描写はまずいと、ここが小説教室だったなら絶対にいわれるに違いない。

 一事が万事こんな調子なうえ、読点がほとんどないのだ。上の引用でも解る通り、読点が一つあってもしかるべきなのにそれがない。だから一文がものすごい長い。これよく訳せたなぁ。筒井康隆がまた文章で実験してるのかと思ったよ。

 セリフも括弧がついていなく、地の文章のような扱いになっているし、ともかくよく言えば中毒性のある文体をしている。

 ここまで徹底されると効果的なのは馬を扱っている時の行動描写などだ。ダンス・ウィズ・ウルブズのバッファローの群れのあのシーンのような、すごい息づかいが伝わってくるのだ。

 それと、この人は星の出てくる夜空の描写がほんとうに素晴らしい。こんな表現初めて読んだよ。

【その他】
 ジョン・グレイディが本作の続編でまた主人公として登場するそうなのだが、今本作を読み終えたあとでは、何となく読みたくない気がしている。少なくとも続編というかたちでは読みたいとおもわない。
 それは、本作で十分堪能したからというだけではない。このジョン・グレイディが変わってしまうのではないかというのを危惧しているからだろう。馬を愛する純粋な少年のままでいて欲しいという気持ちが強いからかもしれない。

 変わらないでいて欲しいと思うのは、自然な心の欲求であり、願望なんだろう。変わらないなんてあり得ないんだから。自分だってどんどん変わっていく。それを積極的に受け入れ、時にあきらめて受け入れ変化していくのだからな。

…とりとめもなくずらずら書いてしまったが、思った以上にこの作品を愉しんだ。文体のせいで万人には勧められないが、静かな夜に通して読みたくなるほどの力を持った美しい物語だと思う。

豆文。『こども。』

子供を「子ども」と書くのがどうも世間的に広まってきている。
「供」ではないとかいう馬鹿な物言いがまかり通っている現状がおかしみを誘う。

しかしそれなら「幼稚園」は「うちの子は幼稚じゃない!!」とかいう物言いもあると思うんだが?


どうなんだろうとふと思った。

その他。『おひさま』

 最終回が見られず残念。黒柳徹子さんが出てたらしいな…こんちくせう。みたかったぜ…。

 NHKの連続テレビ小説は、出勤時間の関係でほとんど見る機会がなかった。ちょっと無理すれば見られるのだが、そうもいってられなかったので、始まって数分見るくらいだった。

 が、今回の『おひさま』はなんだかよく分からないが惹かれてしまい、ほとんどみていた。出勤時刻ぎりぎりである。

 なんだかよく分からないが、この作品はエピソードがどれも静かに置かれていて、「生活に根付いたちょっとした逸話」でできている。だから、劇的なステレオタイプのドラマを見ている人には「物語が全然動かない」ように見えるんじゃないだろうか。

 白紙同盟の三人は、見ているとどうにも『笑う大天使』の毛色の変わった三人に見えてしかたがなかったが、この三人が見ていて面白いので見続けられたのかも知れない。女学校時代の水飴屋のシーンとか好きだ。
 やっぱり育子さんでしょう。陽子は完璧すぎるし、真知子さんは清楚すぎるし(爆)。性格も行動も好きなのは育子さんだのう。

 脇を固める俳優陣もすばらしい俳優ばかりで、見ていて安心できた。
 公式サイトで知ったのだが、主人公の陽子が書いている黒板の字や手紙の字は、井上真央さんの直筆だそうだ。
 なにぃぃぃ。
 めちゃめちゃうまい字だなぁ…。うちの母がうまい代筆だといっていたので、これはびっくりするに違いない。

 登場人物のなかで丸庵のお父さん、お母さんはみてて安心できるし好きなキャラだが、わけてもタケオがなんかいいんだよ。
 あいつ好きだなぁ…。なんかいいよなぁ…。

 イトイの奥さんは綺麗な人だけども、俺が子供の頃だったら白川由美さんが丸庵の女将だったろうなぁ。むっちゃ綺麗な人だからね。

 というわけで、終わっちまった哀しみに。今日も仕事が降りかかる。

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